パンフレットには長洲金魚を広めた人々についても書かれていました。紹介します。
1859年に長洲町で生まれた寺本末吉氏は、金魚の大量生産を夢見て、庭先に掘った小さな池で養殖を始めました。
その後、稚魚のエサには、ミジンコが適していることを発見し、金魚の大量生産を可能にしました。
松井勝太郎氏は、寺本氏とともに本格的に金魚養殖を始めた長洲金魚の草分け的な存在でした。
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また、長洲金魚の名を全国各地に広めたのは、「ふれ売り師」と呼ばれる金魚の行商人です。
ふれ売り師は、天秤棒を担ぎ、笠を被り、法被に地下足袋という姿で、
「きーんぎょえー金魚」という独自の節回しで客を寄せながら、1日に30kmほど売り歩きました。
昭和30年ごろには、この「ふれ売り師」が町内には500人ほどおり、長洲駅から汽車に乗って各地へ行商に向かい、金魚の町長洲の名を広めました。と書かれています。
今では浦島義弘氏が日本でただ一人の金魚のふれ売り師として頑張っておられます。